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2006年8月に立ったウィキペディア関連スレッド

< 7月 | 9月 >

  # by rh-kiriki | 2006-08-02 14:24

最近気になった記事。

いや、たまには更新しないとなあ…。というわけで[[特別:newpages]]から気づいた記事を。
じつはもう5日くらい経ってるけど、既に旬が過ぎてるというツッコミはなしで。

ポール・イリンスキー
ロシア皇族(ロマノフ家)の末裔のひとり。少し前にIRCでS_kitahashiさんとロマノフ家の末裔について話をしたので、ちょっとしたシンクロニシティを感じた。
この人物はニコライ2世の従弟の息子にあたる。ロシアの帝位継承法では貴賎結婚すると帝位継承権を失うと定められているので彼には継承権がないし、本人もロシア帝位に興味はなかったらしいが。ロシア語だと「パーヴェル・ロマノフスキー=イリンスキー」となるのかな。
最後にある「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン、ノルウェー、オルデンブルクの継承権も主張できた」というのはどういうつながりだろう。おそらくシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家(現在のノルウェー王家)とどっかで縁戚関係があるのだろうが、ホーコン7世(独立後最初のノルウェー王)の子孫にロシアの皇族と結婚した人はいないようだけど(というかノルウェーの分離独立が1905年、ロシア革命が1917年という時点でかなり大変そうな…)。
まあロマノフ家も途中からホルシュタイン=ゴットルプ家になってたような気がするから、このへんの関係だろうか。
ヤコフ・サンニコフ
ロシアの探検家。北極海の海峡に名を残すが、それ以上に目撃した幻の島「サンニコフ島」(en:Sannikov Land)で知られる人物。探検家も好きだし、幻に終わったものも好き(テミス_(衛星)みたいなやつ)な人間としては見逃せない。まだ記述が乏しいので発展するといいなあ。

  # by rh-kiriki | 2006-08-01 04:56

2006年7月に立ったウィキペディア関連スレッド

< 6月 | 8月 >

  # by rh-kiriki | 2006-07-12 20:41

2006年6月に立ったウィキペディア関連スレッド

< 5月 | 7月 >

  # by rh-kiriki | 2006-06-06 04:07

査読依頼?興味ないね。

世界史板住人がウィキペディア(Wikipedia)を弄るスレの64で「グレンコーの虐殺」の記事を書いたという報告があった。
見に行ってみた。
素人につき注意 : 以降の文章はただの感想です。
☆☆☆☆[[グレンコーの虐殺]] = 18,548 bytes ( 2006-05-18 10:46:09 S_kitahashi, 初版は 2006-05-15 18:18:22 S_kitahashi )
まずは冒頭文から:
グレンコーの虐殺(ぐれんこーのぎゃくさつ、The Massacre of Glencoe)は1692年、イングランド政府内強硬派およびスコットランド内の親英勢力の手によって、スコットランドのグレンコー村で起きた虐殺事件である。
英語版みたいに日付があってもいいんじゃないかと思いますが、これは好みでしょうか。冒頭文その後で結果について軽く触れられてるのも新聞記事のリード文みたいでいい感じ。
Google先生によると「グレンコウの虐殺」「グレン・コーの虐殺」という表記もあるようなので、リダイレクトを作っておくといいかも。あと「大虐殺」という訳もあるようで。
#背景と#経緯:
#背景では思想的感情的な背景(イングランドがスコットランドを服従させる必要があったこと、カトリックのスコットランドに対して敵対心があったこと)が、#経緯では虐殺の直接の動機と事件までの経過(服従させるために力を誇示する必要性があったことなど)が書かれています。文章は読みやすく、わかりやすいです。
ただこれ、節分けなくてもいいような。英語版ではBackgroundで一節だし(←まとめすぎ)。
あと読んでいて思ったのは、具体名出してもいいんじゃないのかなあと。例えば、「言語・民族も異なっていた」(英語とゲール語、アングロサクソン人とケルト人でしょうか)、「イングランドは当時、南のフランスと戦闘状態にあり」(大同盟戦争のことでしょうか)、「グレンコーのマクドナルド」(英語版ではAlastair MacIain(アラスター・マキーアン)と族長の名前があります)、「署名の場」(最初はハイランド州フォートウィリアム (en:Fort William) で変更先はアーガイル・ビュート州インヴァレリー (en:Inveraray) らしいですが、どの位距離があったのかなあとか)など。
#虐殺事件:
2月13日早朝、皆が起きる前に命令が部下たちに公表され、実行に移った。家々に火をかけ、族長以下38名を刃にかけ、40名の女性・子どもが焼死した。
事件の経過はわかりやすくまとまっています。こちらのブログによると族長の息子は生き延びたらしいですが。
スコットランドの慣習についてもう少し詳しくてもいいかもしれません。例えば英語版によればスコットランド法には "murder under trust" なるものがあるらしいので(これは書くなら事件の結果でしょうか)。
あと、テーブル使う必要あります?
#事件の影響:
事件の情報が広まると、国内・国外から批判の声が上がり、名誉革命直後の不名誉な事件となってしまった。ウィリアム率いる名誉革命体制イングランドの威信は傷つき、これ以上強硬策に出ることができなかった。スコットランドを懐柔するいっぽう、事件の黒幕はキャンベル氏族に引き受けさせて不満をそらす必要があった。事件は結果的にジャコバイトに恰好の攻撃材料を提供してしまったが、その一方で氏族間の溝もまた深くなり、一致団結してイングランドと相対することも非現実的となった。
この節は査読依頼でのY_tambeさんのコメントを受けて大幅に加筆されたようです。当事者双方について詳しく結果が書かれているのではないでしょうか。
重要C 整理B 内容B 水準B 信頼B+

  # by rh-kiriki | 2006-05-19 02:47

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